感情の否定
2006年1月8日怯えている、心に、人に。
いつの頃からだろうか、人の愛し方に戸惑い覚え、"好き"という感情に抑圧を課し、好きであることが"嫌い"であると否定したのは。
そしてそこには、否定することで傷つかずに済むという安堵がある。
女を好きになると、まず最初に嫌われることを考える。もちろん、異性を喜ばせたいとは思う。
しかし、愛し方を失った身では付き合ったとしても異性を傷つけ、付き合わなくてもいずれ傷つける。
だから、最初から交流など持たなかった事のようにするのが最良の方法なのだ。
いや、最良の方法などではない。自分が傷つかないようにするために、相手を否定するという悪。ただただ怯えている。恋愛に、そう恋愛恐怖症。自分はいつまでも幼稚なのだ。
女を失うのが怖くて、女を悲しませるのが怖くて、女を傷つけるのが怖くて、触れられない、抱けない。付き合えばいつもこう。
女は何を言って欲しくて、何を買って欲しくて、何処に行きたくて、何時抱かれたいのか。幾年の月日が流れれば理解できるのだろうか。
Shadow
2005年11月24日そこには漠然とした虚空だけが存在している。
何をしたいのか理解できず、終わりの無い摩天楼を彷徨い歩く。
次第に不安、恐怖が体を蝕み始め、足は硬直し、心臓は音を消し、表情は無くなり、さながら蝋人形のよう。
不自由の身においても、なお骨の隋まで犯され屈服させられる。
何が不安なのか理解できない事への不安。
何が恐怖なのか理解できない事への恐怖。
何をすればこの不安、恐怖は取り払えるのだろうか。
酷いソースコード
2005年10月28日ゼミで一つのプロジェクトがある。深くは語れないが、5人で一つのアプリケーションを作り上げるというもの。だけどなってない、全てがなってない。
僕はそのプロジェクトに加担していないので表面的にしか認識していないが、開発言語はJavaを使うのだが、クラス・インターフェイス設計が全くできておらず、Javaの利点を生かしきれていない。
さらにソースは悪臭が漂っている。一つのJavaファイルが3000行〜4000行という異常なソース。この世の欲望を鍋で煮つめたら出来た、まさに"醜態成"ともいうべきソース。
それは、そう。全てがpublicで
それは、そう。全てが汚くて
それは、そう。全てがバグで
だが、そんなソースを直すのが好きだ。それは、君の無能さを証明できるから。
君という存在がどれだけ無力か
君という存在がどれだけ無価値か
君という存在がどれだけ無意味か
君という存在がどれだけ無意義か
君という存在がどれだけ無精か
君という存在がどれだけ無躾か
君という存在がどれだけ無為無策か
そんなことを教えてやれるから。
Virtual と Real
2005年10月19日現実世界に物質として存在する私と、ケーブルで繋がれた目に見えないネットという架空世界に存在する私は全く別人格だ。だから、ネット上の発言をリアルに引き摺ってくる輩の存在が気に食わない。
例えばブログに何か記事を書いた、それを大学で私に直接言ってくることが受け入れ難い行為だ。
それは、なぜか。ブログで書いたことは、トラックバックやコメントを利用してブログ内で消化するのが健全だと思うからだ。
さらに、偽名の私にはネットでしか会えないのだから、本名の私に聞いてくること自体がお門違いなのだ。
このブログは太陽の下で話題に上げられることの無い、いわば隠れ家だ。日本国憲法に則れば、何を書いてもリアルから野次が飛ぶ事はない。自然体で居られる、非常に限られたスペース。
私にとってのネットは、リアルでは出来ないようなことをする。そんなものだ。
尋常ならざる趣味
2005年10月15日最近歩くことが趣味だ。60代のおじ様おば様方の健康志向ブームのウォーキングといえば年寄り臭いと思われるかも知れないが、私のはもっと酷い。痴呆症の老人が深夜あても無くコンクリートジャングルを彷徨い歩く行為とほぼ同じだ。
PM 9:35
小雨がパラパラと降り始めている。普通だったらこれから激しくなることを考えて家で大人しくしているのだろうが、雨に濡れることも嫌いじゃないので家から少し遠い全長4Kmの親水公園を端から端まで歩いてみた。
虫の音が心地よく響き、川のせせらぎが心を癒してくれる。そんな静寂をポンプが水を汲み上げる人工的な音で掻き消されるのが非常に気に食わなかった。
歩き始めて最初に目に入ったのは30代のカップルだ。すぐに通り過ぎてしまったのでどんなことを喋っているのか皆目検討もつかないが、屋根付きのベンチに座って愛を囁き合っているのか別れを告げていたかのどちらかだろう。小雨の中わざわざ外にいないで、室内でちちくり合えばいいのに。
だいぶ歩いて次に会った人間は、30代〜50代の男性。長靴を履き、川の中で網を持ち、ひたすら水中の何かを探していた。普通に考えれば異常な光景。サスペンス劇場風に言えば、男は前日の殺害で落してしまった遺留品を探していて、そこを通りがかった私は次の日殺され、一連の殺人事件を船越英一郎が解決する感じだろうか。明日殺されないことを祈るばかりだ。
端から端まで歩いてみたが、疲労感で体が一杯。これから家に帰ることを考える、もう一回親水公園をある距離とほぼ同じだ。川は飽きたので、アスファルトを歩くも面白みが無い。何か妄想でもしながら歩こうと、中学生が大好きな女の子に書いたラブレターの文面を考えてみた。最新の命名ランキングに"葵"という名前がランクインしていたのを思い出し、相手の名前を"葵"にしてみた。
葵さん、私はあなたのことを考えると夜も眠れません。
眠れないので、別のことをしていてもあなたのことが忘れられません。
夜はいつもあなたのことを考えてしまいます。大体
夕日に赤く染めあげられた教室で、学生服に身を包んだ少年少女が互いの舌を絡ませ悦楽に浸っている。
互いの顔が離れ、いやらしい唾液が葵の顔に滴る。もう一度激しく舌を絡ませながら、今度は体も求め…
毎晩こんな感じであなたのことを思いながら射精しています。どうか私と付き合ってください、お願いします。
ラブレターの書き方に困った若者のは参考にするといい。そしてフラれるといい。
歩いていると自然と心が落ちて、真っ向から自分と向き合う事が出来る。自分の醜さ、怠慢さ、傲慢さ、全てを受け入れて自分を見つめることが出来る。少しだけ心に余裕が出来、もう少し生きてみようと思える。家に引き篭もりがちだが、外に出てみるみて初めて重要かが分かる。
評価を受けること
2005年9月27日評価を受けることが嫌いだ。それは良い評価であっても、悪い評価であっても。評価を受けること自体に嫌悪してしまう。
ここに来る前、別のWeblogサービスを使って色々と記事を書いていた。多数の友人から、"ブログ面白いね"、"文章を書くのうまいね"などと言われた。それはお世辞だったのかもしれないが、周り全員から言われて、さらに友人の友人まで広がっていったことで本当だと信じてしまった。
普通の人なら、さらにがんばろうとか思うのかもしれない。私自身もそれを思った。しかし、今以上の記事を書こうとしてもそれは自分自身を超えなければならないということだ。非常に辛い。
現状を自分の力のみを使用して打破するということは並大抵のことではない。普通は出来ない。
だから、書くのを止めた。
なぜなら、面白くないって言われたときの反動が大きすぎる。さらに、面白くない記事が上げられないということは自分の書きたい記事を犠牲にすることとも一致する。そんなことをしてまで、記事を書きたくはなかったのだ。
だから、書くのを止めた。
趣味でやることを、一々評価されることが私は嫌いなのだ。評価を受けることで、楽しくなくなるから。
こんなことを書くと、ネットに詳しい友人にはすぐに見つけられそうだけど。
最近の私、壊れていく私
2005年9月27日自分が壊れていく感じがする。
昨日まで仲良く接していた友人に、今日は冷たく接したり自分の行動がよくわからない。情緒不安定とか、そういう次元ではない気がする。
けだるくて、生きてる感じがしなくて、なんか死んでいく感じがする。鬱病なのかもよく分からなく、どうすればいいのかも分からない。
ベットの上で寝てるときが一番安らげる。